人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

私の戦後史(3)

昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約が、結ばれている。

そして、同時に、日米安保条約が、結ばれている。

この安保条約が、1964年安保改定の騒ぎにつながる。

 

日本の国に警察予備隊が出来たのは、1950年(昭和50年)。

朝鮮戦争に、米軍が、出征した後の穴埋めだといわれた。

1952年(昭和52年)自衛隊となる。

 

仏事で、集まった母の親族は、

自衛隊やて。」

「軍隊とどこが違うの?」

特に、母の姉は男の子が4人いるし、母の兄嫁は男の子が3人いるので、

「息子が、徴兵制で、兵士なることを恐れていた。」

 

日本の国は、平和が続いて、従兄弟たちは、一人が、癌でなくなった以外、全員元気である。

 

 

 

我が家では、母が、昭和27年(1952年)肺浸潤と診断される。

幸いなことに、ストレプトマイシンが発売されていて、投与をうけた。

小康状態と診断された。

 

昭和28年(1953年)祖父が亡くなる。

太平洋戦争で自宅を焼失していた我が家は、この年、同じ香川県東かがわ市香川県大川郡引田町)に、小さな家を建てた。(当時住んでいた々引田町内に)

両親は、やさしいとはいえ、母の姉や母の兄嫁に気を使っての生活から解放されてほっとしたようだ。

引っ越しの日の母の明るい声を今も、憶えている。

 

翌年母の肺結核が再発した。

隣の白鳥病院に母は1ヶ月ほど、入院した。

パスとヒドラジットの併用療法が続けられた。

医師に「栄養状態が、良くないですね。もっと蛋白質を取って下さい。」と言われてと聞いている。

 

両親は、10数羽の鶏を飼い始めた。

殻の無い卵とか、黄身が2個入った卵をよく食べた記憶がある。

鶏の餌は、それまでは畔の草と米ぬかが多かったが、農協で、玉蜀黍とか、牡蠣殻を買って来て、食べさすこともあった。

 

幸い、母は健康を回復した。

 

世の中、「もはや戦後ではない。」と言われたころの事である。

 

 

ジニア