人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

母のこと(1)

母は、大正5年(1916年)香川県さぬき市の農家に生まれた。

兄が2人、姉が3人の末っ子であった。

 

しかし、母の母(私の祖母)が、次のお産で、母が小学校に入学する前に亡くなった。

父は、すぐに再婚したとのことである。

その義母は自身の子供を自分の実家に残していたとのことである。

やはり、自分の子供のことが気になっていたのだろう。

農家のことなので、余剰の果物など、自分の実家に送っていたらしい。

 

母の兄や姉たちは、次々結婚したり、学校へ行ったり、就職したりして、家を出た。

母にとって、自分の家の中は、寒々したものだったらしい。

時々私を捕まえて

「義理の中で育つのは、つらいものだよ。いつも、義母の顔色を窺っていた。」

「小学校から帰ると、すぐ上の姉(私にとっては伯母の一人)が、学校から帰るのを、垣根の外で待っていた。姉は、いつも私をかばってくれた。」と言っていた。

一人娘で、誰にも気を使うことなく育った私にとっては、想像できないような、厳しい生活だったのだろう。

 

学校を終えて、当時のことだから、家事手伝い、

家族の着物を、朝から晩まで縫っていたり、蚕を買っていたので、朝早くから桑の葉を摘んだりの毎日だったらしい。

 

父と母が結婚したのは、母が24歳。父が42歳。

「どうして、結婚したの?」と聞いた私に、

「自分の意見が言える環境になかった。親の指示だった。」

「実家のおじいさんは、『お拵え(おこしらえ)をしたくなかったの。』」と。

私の父方の祖父は、祖母を失った間もなくだし、父は離婚していたし、家の中に女手が

必要だった。

 

お見合いは母の伯母の家。

父と母は黙って座っているだけで、祖父と、母の伯母が

「こんなめでたいことはない。こんなうれしいことはない。お互いに親戚になるなんて。」と言い合ったそうである。

 

結婚した夜の食事で、私の障害児の姉が食べこぼしたご飯を、一粒一粒、拾って食べた、と聞いたこともある。

「父には、なかなか親しめなかったし、祖父は、身の回りの世話など、むちゃな要求をする人だったけど、父も祖父も心やさしい人だった。」

晩年になって、母は回想していた。(明日に続く)

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