人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

祖父のこと(2)

(昨日の続きです。)

終戦詔勅は、ラジオで放送されたとのことですが、私はまったく記憶にありません。

1945年8月15日朝、同じ村の少し遠くに住む人から

「日本は負けたんじゃ、戦争は終わる。」

と聞いたそうです。

空襲ですべてが焼けたので、祖母の写真は、一枚も、残っていません。

祖母の位牌も、祖父の位牌を作ったときに、一緒に作り直しています。

 

それでも、祖父のところへ、患者さんは来ていたそうです。

若いころは、普通の家庭医だったそうですが、その頃来ていた方々は、アトピー性皮膚炎の方と、捻挫などで腫れができた方ばかりでした。

 

アトピー性皮膚炎の方には、硼酸軟膏を渡し、捻挫の方にはキハダ(黄柏)を使った湿布薬を渡していました。

 

1947年、私と妹が疫痢にかかり、私は助かりましたが、妹は他界しました。

まだ、抗生物質が一般化していない時代でした。

 

母の実家も、母の兄が戦死し、その後、母の父(私にとっては母方の祖父)が脳出血で亡くなり、母屋には、母の義姉の一家が住んでいました。

母は、祖父と自分の義姉の間に立って、いろいろ気苦労があった、と聞いています。

祖父も父も、周りの人に気を使うような人ではありませんでしたら。

 

1950年、一家は、母のすぐ上の、姉の別宅を借りて、さぬき市から、東かがわ市に引っ越ししました。

 

祖父は、相変わらず、朝は冷水摩擦をし、午前中は診察をし、午後は近所に散歩をし、そのあとは、横になっていることが多かったです。

最晩年の祖父は、耳が聞こえなくなり(母の声だけが聞こえたようです。)ましたが、亡くなる日も、午前中は、普通に診察をしていたそうです。

今も思いますが、母がいたからこそ、祖父は晩年の活動ができたのでしょう。

 

社会的に、恵まれた後半生でしたが、ずいぶんと、わがままな人で、父と母は、影で、祖父を支えるのに、苦労が多かった、と思います。

しかしながら、私は、祖父にかわいがられたことを、今も思い出すことができます。

 

ある夕方、祖父は母を呼び「〇〇先生(近くに住む開業医)を呼んでくれ。死ぬときは医師の診断書がいるから。」

父と母は「死ぬことなんて、わかるはずがありません。なんてことを言われるのですか。」と、止めたそうです。

「人が死んで、医師の診断書がないと、お前たちに迷惑がかかるから。」と言って聞かず、〇〇先生が来られてから、約2時間後に亡くなったそうです。

 

私が、大人になってから、身内の医師にこの話をすると、「おそらく私の父の場合と同じように心筋梗塞の発作を起こしたのだろう。」とのことでした。

1953年没、祖父86歳。

 

日本は、その後「もはや戦後ではない。」と言われ、もう少し時間を経た後、高度成長期に入ってゆきました。

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ムラサキツユクサ