人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

父の一生(2)

(昨日の続きです。)

1941年太平洋戦争が始まる。

3歳まで、住んだ家だが、玄関の土間に防空壕が掘られた記憶がある。

後で両親に聞いた話だが、食料不足で、さつまいもの蔓まで食べたそうである。

 

1945年7月に、私が生まれた家は、空襲で焼け落ちた。

何とか、命を落とさずにすんだ私の家族は、母の実家に疎開することになる。

 

母の実家もそのころ、大変であった。

母の兄は戦死。

そして、母方の私の祖父は、すでに脳出血で死去。

母方の祖母は、母が小学校入学前に、お産で死去している。

母の実家には、母の兄嫁とその3人の息子たちが住んでいた。

この家の離れを借りて、我が家は、生活することになる。

祖父が、疎開先で開業医を続けることで、我が家は生活できた。

 

そのころ、中学校の英語教師の募集があった。

英語に自信のあった父は、応募をしようとした。

しかしながら、募集要項に書かれた居たのは、大卒であることが条件であった。

 

父は、若いころ、勉強が嫌いで、高卒で就職したことを、悔しく思ったことであろう。

私が、中学生になったころ、

「女の子でも一人で生きていける技術を身に着けることが、これからは大切だ。」

と言い出し、大学進学を勧めてくれた。

私が、卒業した中学で、その当時、高校に進学したのは、卒業生の40%、

さらに、短大も含めて、大学に進学したのは、そのなかの40%。(全体では16%に過ぎない時代であった。)

 

祖父は、1953年(昭和28年)に亡くなる。

母の実家で生活したのは、約5年。

次に住んでいたのは、母の姉の別宅であった。

 

祖父が亡くなった後、その当時住んでいた東かがわ市に、両親は小さな家を購入した。

父は56歳。私、12歳。

家の周りには家庭菜園があり、鶏を10数羽を飼っていた。

母の実家に住んでいるころ、母の実家の持山を開墾して、さつまいも作りしていた父だったが、野菜作りも、鶏を飼う事も、はじめての経験であったことであろう。

高松市まで、鶏の飼い方の講習を受けに行っていたことを覚えている。

 

我が家は、その後、父の株式投資で生活した。

戦後10年くらい過ぎで世の中は「もはやは戦後ではない。」と言われ始めていた。

日本の経済の高度成長期と重なっていたことは、我が家にとって幸運であったと思う。

毎朝、父は、9時から、短波放送でその日の株価を聞いていた。

 

私が70歳くらいから、息子に付いて、株式投資を学び始めたとき、株式の用語をかなり知っていた。

父から、系統的に株式投資を習ったことはないけれど、息子から習ったとき、入門をするのに、抵抗がなく、役だった。

(明日、父の晩年について書きたいと思います。)

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ナデシコ(?)