人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

父の一生(1)

息子のリクエストがあったので、父のことを備忘録として書いておく。

 

父は、1898年(明治31年高松市に生まれた。

祖父は、開業医。

祖父の後を継ぐべく勉強をするために、小学校を卒業してすぐ、東京へ出る。

(祖母の実家が東京にあったそうである。)

青山学院中等部、高等部卒。

(父の話によれば何度も洗礼をすすめられたが最後まで断ったそうである。)

現在のような、受験の塾もなかった時代、勉強が好きでなかったような父は大学へ行かず、保険会社に就職する。

(これは、後程、父の大きな後悔のもととなる。)

 

1923年(大正12年)父25歳、関東大震災

会社に勤務中であったという。

日比谷公園に避難して、東京市街が焼けるのを眺めていたとのこと。

しかし、火災が終わった後、下宿へ帰ると、自分の下宿は、丸焼けになっていたとのこと。

 

父は一生の間に3回結婚している。

人に対して気配りができにくいところが、欠点ではあったが、まっすぐな穏やかな性格の人であった。

 

第1回目の結婚は、東京で、サラリーマンをしているとき。

父30歳で、兄が生まれている。

しかし、父はその後、結核になる。

結核の治療薬のない時代。

祖父は父を呼び戻すことにする。

最初に結婚した人とはその時、別れた。

(晩年、父は「東京から帰りたくなっかった。どんなに悔しかったことか。」といった。)

 

兄を連れて高松市に帰った父、祖父の手が回らない、家の雑事をしながら、療養生活を送った。結果は大事に至らなかった。

父は、再婚、そして姉が生まれる。

しかし、姉は障害児であった。

姉が小さい時は姉を抱いて、少し大きくなってからは、いつも姉を連れ歩いていた。

国政選挙(その当時は、まだ普通選挙ではなかった。女性に参政権もない時代)の投票所に姉を連れて行って、顰蹙(ひんしゅく)を買った、という。

父は、「姉を他の人に任せることができなかった。手元から離すのが怖かった。」と、後ほど、母に言った、という。

 

祖父は気難しい人であった。

父の、2回目の人との離婚が、いつ行われたのかは、知らない。

おそらく、祖父との間がうまくゆかなかったのであろう。

私が子供のころ、母は、祖父のことを、「根が優しい人とはわかるけど、せめて夜くらいゆっくり寝させてほしい。自分の都合でたたき起こすのだから。」とこぼしていたのを覚えている。

ただ、この時代、父は株式投資について、当時の舅(2回目の人の父親)から、手ほどきを受けている。

 

戦争が近づいてくる時代。

太平洋戦争になったとき、多くの召集令状が出された。

招集された人の最高年齢は1899年4月生まれ。

戦死された方には、申し訳ないが、父は半年の差で徴兵を逃れた。

 

1940年、父は、母と結婚している。父は42歳。

その前年、祖母が亡くなっている。

私は祖母を知らない。写真も残っていない。

祖母はお嬢様育ちであったらしい。

昼からお琴を弾き、キセルでたばこを吸っていた、と聞いたことがある。

それでも、女手のなくなった家の中、家の生活が回らない。

紹介する人がいてのお見合い結婚だった、とのことである。

 

父と母が結婚して間もなく、姉が亡くなった。

「こんなことを言っては、〇〇(父のこと)に悪いが、お前(母のこと)にとってはあの子(姉)が亡くなってよかったと思う。」

祖父が、母にボソッとつぶやいたという。

 

1942年私が生まれる。父44歳。(明日続きを書きます。)

 

(3ヶ所程、息子が手を入れました。)

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カランコエ