人生は80から

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3歳の記憶

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

1945年7月4日未明(私は3歳5ケ月)

香川県高松市の北に拡がる塩田の中の沼井台(ぬいだい 塩分の付着した砂を集めているところ)の陰で父に抱かれていた。

周りに数人男の人がいた。

 

暗い空!

黒い飛行機が低空飛行で海のほうから、市街地に向かって飛んで行った。

「B29(ボーイング29)。」(当時米軍が、日本の空襲に使っていた飛行機)

誰かがつぶやいた。

 

飛び去ったB29は、左方向に旋回した。

飛行機の下のほうが明るく照らされ、間もなくその下から、赤い炎が燃え上がった。

「丸焼けですな~。」

高松市が、アメリカ軍の空襲にあった朝のことである。

 

次に覚えているのは、琴電長尾線の高田という駅前の光景である。

その日、土地の方々が高田駅の駅前で炊き出しをして真っ白なおにぎりをふるまってくださった。

その当時、普通の食事は薄い雑炊かサツマイモであった。

父と母は「食べるものがなく、サツマイモの蔓まで食べた。」と言っていった。

白米は、見ることもできなかった。

土地の方々は、非常食の白米を空襲にあった私たちに提供してくださったのだ。

現在地図を見ると、塩田から、高田の駅まで約12kmある。

父は、私を連れて12kmの道を歩いたのであろう。

 

それから2kmほど離れたところに母の姉の家があり、その家を父は目指したのである。

 

その当時私の家族は父と母、祖父、妹、私だった。

私が小学生のころ、母は、父ともめると「空襲の日、あなたは、扱いやすい〇〇(私のこと)だけを連れて先に逃げてしまった。お祖父さんと、小さい子を連れてどれだけ難儀したことか。」と父を責めていた。

 

いつも冷静な父が、私一人を連れて、さきに、逃げたのは、動転したのだろうか。

 

無事に伯母の家に着いたがその時、母たちは到着していない。

その間父は、一言も口を利かなかった。

きっと、慌てた自分のことを責めていただろう。

 

「〇〇ちゃん、無事でよかったな~!」

はるか年上の従兄たちが、かわるがわる声をかけてくれた。

 

伯母の家について、どのくらいして、母たちが、到着したかの記憶はない。

母たちが、伯母の家に着いたとき、まだ日が高ったことだけを、覚えている。

「ま~!よくご無事で!よろしござんしたな。」

伯母が祖父に声をかけてくれていたのを覚えている。

 

コロナが蔓延して、巣籠生活が続くが、父や母が越えてきた太平洋戦争のころの生活に比べると、今の生活のほうがはるかにいい生活だろう。

いつも思う。

戦争だけは、絶対に起こしてはいけない。

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はや、菊が咲いている。