人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

母の思い出

私が、育った家は、自営業であった。

家族は、祖父、父、母そして、私であった。

家の仕事の中心は祖父で、それを、補佐し、祖父の身の回りの世話をする母は、大変、忙しい毎日であったと思う。

 

母は、もともと、明るい性格であり、発想は柔軟であった。

例えば、私がニンジンが嫌いで食べられなければ、「少しづつ、慣れればいいから」と

食べる量を減らしてくれるような人であった。

そして、洗濯物を干したりするとき、歌を歌っているような人であった。

 

先日、息子と話をしていて、息子が言うのは、

「俺、おばあちゃんが好きじゃなかった。

遊びに行った時、俺の好きなものを、山ほど、出してくれる。

俺のを喜ばそうとしていることは、わかる。

だけど、俺ホウレンソウが嫌いだ。

『頼む、減らしてくれ』と言っても、絶対に減らしてくれなかった。

おばあちゃんの人柄がいい人であることはわかる。

それでも、人のことを聞く人でなかった。」

 

私の記憶と正反対のことを息子は言っている。

そういえば、晩年の母は言い出したことは、絶対に聞かず、必ず、自分の主張を通してきて、何度か私も振り回されたことが、あった。

 

今、考えると、60歳代くらいから、老化が現れ始めたのであろう。

母が、60歳を過ぎたころ、父が亡くなり、それから、20年余り一人暮らしをしてくれた。

 

しかし、80歳後半になり、母の主治医に

認知症が始まっています。一人は困難です。家族と一緒なら、生活はできます。」と言われた。

 

母と同居した。

その頃の我が家、子供卒業し、就職で、私は夫と二人暮らしであった。

ただ、夫はて年退職をし、働いていたのは、私のほうであった。

我が家の経済的で理由で、私が働かなければならない時期であった。

 

社会福祉協議会の人の助けを借りて、私が仕事の日は、母にデイケアに行ってもらうように、した。

母は、私と同居をすれば、「朝食後、私と差し向いで、お茶を飲みながらよもやま話ができる」そんな生活を想像していたようだ。

「〇〇(私のこと)のところへ来るんじゃなかった。〇〇が、こんな忙しい忙しい生活を送っているとは思わなかった。」といわれたけれど、どうしようもなかった。

デイケアから、帰ってきても、母は、夫に気を使う。

母、つらかったことだと思う。

認知症は急激にすすんだ。

 

その後、「故郷の介護施設に空きができた」と連絡があり、母に入居してもらった。

大阪から、香川県まで、私、1週間に1回母に会いに通った。

私を頼ってきて、その気持ちに応じることができなかった自分にできることはそれだけだった。

 

母は、最期は、私が結婚をしていて、自分に孫がいることもわからなくなり、ついに、言葉も発することができず、なくなった。

 

その時、夫は「お母さん(私のこと)よく、お祖母さんの世話をしたな。」と言ってくれたけど、私自身は、母につらい思いをさせたのは自分だとの思いがぬぐえなかった。

 

先日、息子に言われた。

「世の中には、『自分がこうしたい』と思っても、できないことがある。

俺は、仕事もあきらめたし、家族を持つこともあきらめた。」

癌サバイバーで、仕事を捨てざるを得なかった息子、結婚することもあきらめた息子、

息子もどんな思いで、現在まで、生きてきたことか、

 

私は、私に優しかった母が、千の風になって、私や息子の周りに吹いていると考えて生きてゆくことにした。

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ムラサキツユクサ