人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

人生の「まさか」という坂を越えて

お題「ささやかな幸せ」

今から、20年余り前、夫が1000万円あまりの借金があるといいだした。

幸い、二人の子供は、社会人になった後であった。

夫には、自分の年金で、借金を返してもらうことにして、私は、そのころまだ、ドラッグストアで働いていたので、働き続けて、生活費は、私が負担することにした。

 

『人生には、上り坂と下り坂と「まさか」という坂がある』というが、その「まさか」のはじまりにすぎなかった。

 

翌年、夫が前立腺がんになり、手術した。

ステージはⅢb、術後、脳下垂体ホルモンの注射をすればそれで、よかった。

 

そのころまで、20年余り、一人暮らしをしてくれていた母が、認知症をは発症した。

母の主治医医から「一人暮らしは、無理でしょう。」と言われた。

地域包括センターで、相談したが、当時要介護2、介護施設に入居するには、症状が軽かった。

母と、小さな3DKで同居した。

小さい家とはいえ、田舎でのんびり生活してきた母は、環境激変で認知症は悪化した。

母は、「私とのんびり1日家の中で生活できる」と思っていたようであったが、我が家は私が働かなければ生活は、成り立たたなかった。

故郷で、頼んでいた、介護施設に空きができ、介護施設の入居した。

私は1週間に1回母のところへ通った。

 

そのような毎日が続いたころ、娘が仕事でタクシーに乗っていて、そのタクシーにある少年が、運転する車がぶつかり、タクシーが、川底に転落した。

外傷は、ほんとんどなかったがPTSDを発生した。

休職した。

そして、母が介護施設に入居して、空いた小さな子ども部屋に帰ってきた。

会社側は、PTSDを認めず、労働基準局、労働局、審査委員会での争いとなった。

争い中に、宝塚線のによる事故が起こり、事故によるPTSDが先例として認められ、娘の主張がとおった。

 

そのころに母が他界した。

 

そして次は、夫の食道がんであった。

主治医な「5年生存率は20%以下でしょう。」と言われたが、幸い5年間元気で、寛解達した。

 

「まさか」という坂は越したと持ったけれど、越えておらず、息子が大腸がんになった。

大腸を全摘、主治医に「抗がん剤が効かなければ1年以内の命でしょう。」と言われた。

息子は、その後肺に転移があり、2回肺の手術をうけて、右肺の3分の2がなく、日常生活が息苦しく、仕事はアーリィリタイアはしたけれど、元気である。

 

息子が癌にかかったとき、娘は再度自立を目指して家を出て再就職した。

 

これで、「まさか」という坂は終わったと思っていた。

しかし、「まさか」は、まだ続いた。

 

次は、夫の食道がん再発であった。

夫の癌細胞は食道から、気管支に転移していた。

夫を見送って、喪中葉書を出し終わったとき、娘が心臓発作を起こして、急に旅立った。

そして、私の「まさか」は今のところ終わっているように見える。

現在、体内に癌細胞が残る息子と二人暮らしである。
癌で、アーリィリタイアはしているが、息子は、日常生活は自立している。
穏やかな毎日である。
そして、ささやかな幸せを感じる毎日である。

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白いアマリリス