人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

昨日の食事(糖質制限食の一例)

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昨日の昼食です。

糖質制限をしていますので、ご飯は食べません。

チキンステーキ、冷奴、大根葉をゆでて、乾煎りし、しょうゆと花かつおであえたもの、無塩バターとからし明太子の盛り合わせ(混ぜて食べると、おいしいです。)

牛乳(モーニングカップ1杯)

 

朝は、エゴマ油をスープスーンに5杯、無糖ヨーグルトを同じスプーンに5杯食べています。

 

夜は

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鯛のあらの煮物(つけあわせは、ナス)、鶏皮を塩、胡椒をして弱火で焼いたもの(つけあわせはレタス)、牛乳、ヨーグルトそして、おいしかったので、昼と同じ無塩バターと辛子明太子の盛り合わせ、ナスの浅漬け

でした。

昼の残りのもも肉残りの皮を焼いて食べました。

 

食欲の秋です。

それでも、現在体重は、57㎏、変りはありません。

御馳走様。

この10年で大きく変わった生活

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

10年前、長くはたらいてきたドラッグストアを退職した。

 

その前2006年には母が他界し、2008年には、息子が癌になり、我が家の近くで住み始めていた。

その後は、「落ち付いて、静かに暮らせる」と思っていたが、夫が体調を崩し始めた。

まず、加齢性黄斑変性を起こし(気が付いたときは、手遅れであり)、両眼の白内障手術をした。(片方の目は、ほとんど失明状態になった。)

次は、間質性肺炎を起こした。

小康状態になったが、「食べ物が飲み込みにくい。」と言い出し、(2005年に食道がんの手術済み)手術後の縫合部分を少し開く、手術を受けた(2015年)。

その時、夫の食道がんが再発していることを知った。

放射線治療を受けたが、食道がんは、消えることは、なかった。

 

その間2014年息子のがんが再発し、再手術を受けている。

 

2016年5月夫は食道がんで、帰らぬ人になった。

 

その年の12月、家を出て一人暮らしをしながら、働らいていた娘が、心臓発作を起こし、突然亡くなった。

 

嵐のような毎日が終わり、凪の時間が訪れた。

その後、3年間ほど、一人暮らしをした。

誰のためでもなく、自分のために使える時間は、これほどいいものか思えた。

 

断捨離をした。

家が広くなり、呼吸をしやすくなった。

 

それまで、旅行はしたことが無かったが、1~2日の国内旅行にも行った。

楽しい時間であった。

 

そして、近居していた息子が、「同居をしたい。」と言ってこの家に帰ってきた。

 

半分は私に似ているが、半分は夫似の息子。

喧嘩をすることもあるが、話合いをすることで、二人三脚の生活は、うまくいっている。

 

「穏やかな毎日が、やってきた。」と思ったら、コロナである。

この、2年間、自分の老化を感じている。

はたして、旅行に行くことが、再びできるようになるか?

 

母のような認知症にならないようにしたい。

息子に、これからも迷惑をかけることをしたくない。

そのために、食事、運動にも注意を払っている。

 

この10年!アッという間であった。

この後、できるだけ自立したい思っている。

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百日草

 

母が戦後結核になったときの話

recoca1940.hatenablog.com

recocaさんの記事をお借りしてきました。

ストレプトマイシンが、まだ、一般化していない1946年に肺門リンパ腺炎にかかり、よく、お元気になられたものだ、と思います。

 

私の母も1952年に肺浸潤と診断されました。

結核の初期ですね。

幸いにも、ストレプトマイシンは、香川県の片田舎でも手に入れることができました。

小康状態になったそうです。

 

翌年、祖父が亡くなりました。

その年、同じ町に父母は、小さな家を建てました。

引っ越しをして、1年たたないうちに、母は、再発しました。

 

母の結核は、戦前戦後の無理な生活と食べ物のない毎日で免疫が落ちていたのでしょう。

隣町の県立病院に入院しました。

我が家にとって、本当に幸せでした。

ストレプトマイシン以外にヒドラジッドとパスという抗結核薬が使う事が、出来るようになっていました。

母は、入院1か月で終わりました。

後、1~2年、パスやヒドラジッドを飲んでいました。

その時、病院で注意されて、卵や、小魚が食卓にあがることが、多くなりました。

 

結核は死病でなくなりました。

でも、まだ、すべての結核が、人類の間でなくなったわけではないようです。

ストレプトマイシンは、耐性菌ができて使われないそうですが、新しい抗結核薬が使われているそうです。

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ススキ

1890年ころ作られた祖母の箪笥

我が家には、古い箪笥が、2棹あります。

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1棹は、私が着替えなどを入れるのに使い、もう1棹は、息子が使っています。

見た目は、きれいでは、ありません。

私が、物心ついたときに、実家にありました。

その頃から、古箪笥でした。

長く、母の着物が、入っていました。

母と同居したとき、母が実家から持ってきました。

 

聞くところによりますと、祖母の嫁入り道具の一つだったようです。

祖父が、1867年(明治維新の1年前)、父が1898年(明治31年生まれ)で、父は祖父の3番目の子供です。

祖母が、いつ生まれたかは知りませんが、おそらく1890年ごろ、祖父と祖母は結婚したのでしょう。

 

この箪笥が、作られたのは、1890年ごろでしょう。

我が家では「1890年箪笥」と呼んでいます。

 

団地の1階に住んでいます。

湿度が、多く、押し入れにも、かびが生えることがあります。

 

私の、嫁入り道具にも、箪笥もありました。

母が亡くなった後、母の着物と私の着物をリサイクル業者に売りました。

空になった箪笥のうち、どちらを処分するかを考えました。

 

私の箪笥は、冬に引き出しがきしんで、開けられない時がありました。

毎年、乾燥剤を箪笥に入れていました。

 

見た目は、もう一つですが、1890年箪笥を残すことにしました。

総桐箪笥ですし、引き出しの板は、私の箪笥の倍はあります。

 

いつの日か、私も息子も死に、1890年箪笥もこの町の清掃工場で処分されるでしょう。

しかし、その時、この箪笥は、使おうと思えば、使える状態でしょう。

これを作った職人さんの腕に脱帽です。

難聴が進んだが、今のところ、日常生活はできる。

私は、耳が聞こえにくい。

若いころから、めまいを繰り返した。

かかりつけ医の話によると、メニエル氏病という事だ。

めまいが、起きるたびに耳鼻科へ行って、副腎皮質ホルモンの点滴を受ければ、これほど、聴力を落とすことはなかったらしい。

生活に、追われて行かなかった。

 

先日、補聴器を新しいものに、取り換えた。

身体障碍者の人は、補聴器を新調するのに、5年に1度、補助が出るらしい。

最初の補聴器を作ったのは、8年前。

その頃は、補聴器をしていれば、町の騒音が聞こえ、対面で他の人と話をすることができた。

 

しかし、コロナが蔓延してから,皆さんが、マスクをされる。

声は聞こえるが、言葉が聞こえにくくなった。

補聴器さんの話によると、初代補聴器の寿命も来ていた。

 

家の中で補聴器をしていると、息子との会話には不自由はない。

でも、電話の声は、聞き取れるが、言葉は、聞き取れない。

 

「身体障碍者に該当するか。」かかりつけ医に聞いてみた。

「人が、なんとか聞こえる最小の音を20μPa(マイクロパスカル)と定め、これを基準として、どのくらい大きいかをdB(デジベル)という単位で表すと、身体障碍者に該当するのは、70dB以上とのこと。」

私は、左が80dB、左が68.8dBとのこと。

わずかに足りない。

 

120dB   ジェット機のエンジン音

80dB             電車の音

70dB    にぎやかな事務所

60dB    通常の会話

とのこと。

 

今の状態になってから、近所の方とも話ができなくなったし、スーパーで買い物をしても、わかりきった会話はできるが、話題が別のことに及ぶと、聞こえない。

テレビを見るのも、字幕放送がある。

 

それでも、目は見えるので、毎日の生活には、大きな不自由はない。

さ~、今日も元気に、行こう。

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セイタカアワダチソウ

 

母のこと(4)

私と一緒に住みたかった母、「本当に、申し訳ない。」と思った。

兄妹の中で、一番かわいがられたのに。

 

それでも、母は、介護施設に慣れてくれた。

 

しかし、ある日、ベッドから落ちて、頭を打ち、硬膜下出血を起こし、手術を受けた。

入院10日間。

ベッドから下りない10日間。

車椅子が必要になった。

 

そのころ、2週間に1回、母に会いに行ったが、会うたびに、母は自分の記憶を失っていった。

まず、父のことを忘れた。

そして、祖父のことも忘れた。

私が、結婚して、子供がいることも、忘れた。

「今度、退院したら、さぬき市に帰ろう。(母の生まれ育ったところで)〇〇(私のこと)と二人で暮らそう。」とよく言っていった。

 

次は、食事が飲み込みにくくなった。刻み食になり、さらに、お茶にまで、トロミをつけるようになった。

 

訪ねてゆくと、うれしそうな顔をして笑ってくれる。

その頃は、言葉をすべて忘れたのだろうか。

話をすることはなかった。

 

私が、母に食事を食べさせると、すべて食べてくれる。

介護士さんは言われる。

「いつも食べながら、眠ってしまうのに。やはり、娘さんの顔を見るのは、うれしいのやろな。」

 

母は、赤ん坊に帰って行っているのだ、と思えた。

 

介護施設に入所して、3回目の冬を間もなく越える頃、母は発熱して、入院した。

耐性菌による尿路感染症であった。

そして、母は帰らぬ人になった。

 

父も母も祖父も私のことを可愛がってくれた。

本当に、私は恵まれていたと思う。

だから、大人になって、人生につまずくことがあったけど、それなりに生きて来ることができたと思う。

そして、今の穏やかな生活ができるのだろう。

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アオイの花

母のこと(3)

祖父も父も、長患いすることなく、介護の必要もなく、体が衰えると、すぐに旅立って行った。

 

母が一人暮らしを始めたころは、近所に友人もいたし、電話の声も元気そうだったし、1年に2回、帰省するだけであったが、子供たちも社会人になるころは、1か月に1回は、大阪から、香川県に帰省するようになっていた。

 

母はいつも言っていた。

「〇〇、何も心配することはない。体が弱れば、隣町の県立病院にかかればよい。入院しても1週間から、1か月で、終わるでしょう。私は、長患いすることは、ない。

困るのは、この家(私が育った家の建物)と残った品物、これは、迷惑をかけるかもしれない。」

 

母は、祖父が残した骨董品などは、ほとんど、処分していたし、家の中は、かなり、断捨離されていた。

家と土地の名義も、私と子供たちに、生前贈与されていた。

 

しかし、私が帰省すると、実家の近所の人が、「あなたのうちの家の電話番号を教えてください。もしもの時に、連絡してあげるから。」と言われ始めた。

 

次の異変は、母が「泥棒が来る。」と言い出したことだった。

その少し前、母は慢性下痢をして、身体が、かなり弱ったが、再び、回復し、近くのスーパーへ行くことができるようになった。

 

携帯もない頃である。

日時を決めて、母に電話をすることにした。

さすがに、私も、母の体が弱って来るのを、感じずには、おれなかった。

ところが、約束の時間の10分前に母から電話がかかって来るのである。

「1時間以上、電話を待っているのに、まだ、電話がかかってこない。〇〇(私のこと)は、交通事故にあって、入院しているのと違うか。」

これは、さすがに、おかしい。

 

次の帰省の時、母のかかりつけ医に、母のことを訊きに行った。

認知症が始まっています。施設に入るか、家族と同居すれば、生活できますが、

一人暮らしは、無理でしょう。」

 

夫と相談して、母と同居することにした。

実家の仏様、母の身の回りの物が、我が家にやって来た。

 

子供たちは、すでに就職して、家を出ていたので、母の居住空間は、昔の子供部屋。

四畳半である。

 

我が家は、その頃、夫が、退職していたが、前立腺癌の手術を終えたばかりであった。

さらに、株の信用取引に失敗して、負債があった。

私は、ドラッグストアで働いていた。

 

私は、朝、夫と母の食事の準備をして、家を出る。

家に帰るのは、夜七時過ぎである。

母は言う。

「朝食後、お茶を飲みながら、甘いものを少し食べながら、〇〇とゆっくり話ができると思っていたのに。〇〇が、こんな忙しい生活をしていたとは。」

 

友人もいない大阪。

デイケアに行ってもらうことにした。

母の送り迎えは、夫に頼む。

 

それでも、環境の変化がいけなかったのだろう。

散歩に行くと言って、デイケアのお迎えが来ても、団地のどこかへ行って、行く先がわからない。

「まさか、徘徊?」

何とか、母を見つけ出して、デイケアに行ってもらった。

 

夜寝る前に、母の下着を替える。

私が眠り入り、二時間ほどして、夫に起こされる。

「トイレが使えない。」

トイレの掃除をして、母の着替えをして、私は再び眠りに就く。

そして、さらに、二時間後に、また、夫に起こされる。

「また、トイレが使えない。」

 

母にも、誇りがあるだろう。

私が、母の下着を取り換えることが、母の誇りを傷つけるのだろうか。

 

私は、夫と相談して、我が家の近くの介護施設に空きがないかを調べた。

どの施設も、50人待ち、中には、100人以上の自然減がないと、次の人は入れない、という。

 

しかし、故郷の施設で、空きがあった。

母自身は、私との同居を続けたかったと思うが、私の体も続かない。

思い切って、母を介護施設にお願いすることにした。(続く)

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日々草