人生は80から

人生100才時代。健康に豊かに楽しく過ごすには

母のこと(2)

1940年に、結婚した母に、相次いで、私と妹が生まれた。

 

祖父の食事は、お膳に載せて、祖父の部屋に持って行く。

戦争中で、食べるものがない時代とはいえ、普通の白米を炊いたご飯だったし、卵が、必ず、1日1回は付いていた。

だから、父と母は、食べるものが他の人より少なく、やせ細っていたらしい。

母方の祖父になる人が農家だったから、時々食料品を荷車に積んで、その上に薪を載せて送ってくれていたそうである。(闇取引になるから。当時は、食料品は配給制であった。)

 

母の兄が戦死し、母方の祖父が脳出血になった時、母の兄や姉は、母方の祖父に会いに戻ったけど、母が帰ることを、祖父が許さず、「あの時ほど、つらいことは、なかった。」と、後で聞いたことがある。(母がいないと、祖父は、他の人の声が聞こえないから。祖父は、ある意味、母に頼り切っていたのだろう。)

 

しかし、祖父は、母の義母のように、冷たさのある人ではなく、人柄は優しかった、とのことである。

「逃げて、実家に帰ったとしても、子供の頃の生活を思えば、その時の婚家先の環境の方が、はるかに、心休まる物であった。」と、母から聞いたことがある。

 

空襲、疎開終戦、と続き、母の実家での生活が、その後、続いた。

母の実家(香川県さぬき市)には、母の義姉の一家だけが住んでいる状態である。

そこで、私と妹が疫痢にかかる。

私は、幸い助かったが、妹は亡くなった。(私は、祖父のお膳に載っていた卵を分けてもらって食べていた。しかし、妹は、卵を食べていなかった。)

 

母は、祖父と母の義姉の間に入って、ずいぶん気苦労をしたらしい。

見かねた母の姉が、別宅の(香川県東かがわ市)の提供を申し出てくれた。

東かがわ市に引っ越しして、3年後に祖父は他界する。(1953年没)

 

父と母は、同じ東かがわ市に小さい家を購入した。

本当は、高松市に戻りたかったが、経済的な問題があった。

小さいけど、我が家、引っ越しした夜の、嬉しそうな父母の姿を今も覚えている。

 

母は、もともと、明るい性格であった。

家事をしながら、歌を歌っていた。

私と父は、音痴でさっぱり、歌えなかったけれど。

 

父が株式取引をする利益で、我が家は生活した。

(私が、大学生のころは、世の中は、所得倍増論の時代であった。)

家の周りに、家庭菜園を作り、10数羽の鶏を飼っていた。

採れた卵を販売するつもりであったらしい。

少しは、農協が買い取ってくれたらしいが、生活の足しになる物ではなかった。

 

就職できるような職場もない小さな町に住んでいたから、両親の希望もあり、私は、高校を卒業をした後、進学し、卒業後、公務員になった。

そして、見合い結婚をし、大阪に出て来た。

 

息子が5歳の時、父は3か月ほどの入院の後、亡くなった。(1977年没)

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秋の南天

母は、それから、20年余り、一人暮らしをしてくれる。

「親子3人で暮らした生活も良かったけれど、一人暮らしの時が、一生で一番幸せだ。」と言いながら。(続く)

母のこと(1)

母は、大正5年(1916年)香川県さぬき市の農家に生まれた。

兄が2人、姉が3人の末っ子であった。

 

しかし、母の母(私の祖母)が、次のお産で、母が小学校に入学する前に亡くなった。

父は、すぐに再婚したとのことである。

その義母は自身の子供を自分の実家に残していたとのことである。

やはり、自分の子供のことが気になっていたのだろう。

農家のことなので、余剰の果物など、自分の実家に送っていたらしい。

 

母の兄や姉たちは、次々結婚したり、学校へ行ったり、就職したりして、家を出た。

母にとって、自分の家の中は、寒々したものだったらしい。

時々私を捕まえて

「義理の中で育つのは、つらいものだよ。いつも、義母の顔色を窺っていた。」

「小学校から帰ると、すぐ上の姉(私にとっては伯母の一人)が、学校から帰るのを、垣根の外で待っていた。姉は、いつも私をかばってくれた。」と言っていた。

一人娘で、誰にも気を使うことなく育った私にとっては、想像できないような、厳しい生活だったのだろう。

 

学校を終えて、当時のことだから、家事手伝い、

家族の着物を、朝から晩まで縫っていたり、蚕を買っていたので、朝早くから桑の葉を摘んだりの毎日だったらしい。

 

父と母が結婚したのは、母が24歳。父が42歳。

「どうして、結婚したの?」と聞いた私に、

「自分の意見が言える環境になかった。親の指示だった。」

「実家のおじいさんは、『お拵え(おこしらえ)をしたくなかったの。』」と。

私の父方の祖父は、祖母を失った間もなくだし、父は離婚していたし、家の中に女手が

必要だった。

 

お見合いは母の伯母の家。

父と母は黙って座っているだけで、祖父と、母の伯母が

「こんなめでたいことはない。こんなうれしいことはない。お互いに親戚になるなんて。」と言い合ったそうである。

 

結婚した夜の食事で、私の障害児の姉が食べこぼしたご飯を、一粒一粒、拾って食べた、と聞いたこともある。

「父には、なかなか親しめなかったし、祖父は、身の回りの世話など、むちゃな要求をする人だったけど、父も祖父も心やさしい人だった。」

晩年になって、母は回想していた。(明日に続く)

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ランタナの上のバッタ

便利な電動自転車、しかし、扱いかねる電動自転車

oi-tora.hatenablog.com

老い寅さんが、電動自転車に乗って、小さな怪我をされた記事をお借りしてきました。

 

丘の上に住んでいる私には、坂の下にあるスーパーで買い物をして、帰宅するのに、電動自転車は、非常に便利です。

 

ある日、いつものように自転車で買い物に出て、道路の小さな段差を上がろうとして、倒れてしまいました。

本当に、ドジ!自分を呪っても仕方ありません。

その日は、買い物を済ませて、家まで帰りつきましたが、左足に何となく力がいりません。

 

翌朝、念のため整形外科を受診すると、左足の膝の下に小さなひびがいっているとのこと。

ギブス3週間。マツバ杖をついての生活でした。

当時は夫が元気で、ゴミ出しは夫にしてもらい、買い物はネットスーパーですまし、

何とか、乗り切りました。

これも、退職後だったから、良かったのだと思います。

 

しかし、乗っていたのがママチャリだったら、おそらくひびがいらなかったのではないかと思います。

電動自転車は、坂道を上がるには便利ですが、フレームが太いし、とにかく重いです。

 

しばらくは、そのまま、電動自転車に乗り続けていましたが、とっさに人を避けるとか、狭い道幅を抜けるなどが、電動自転車ではできにくく、3年前に坂の下に降りるのに、電動自転車はやめることにしました。

2度と事故はおこしたくは、ありませんから。

 

現在は、坂の上の団地内でだけ、この自転車を使っています。

しかし、足腰が弱り、坂道を電動自転車で、上がりかねています。

この電動自転車に乗れるのも、後2~3年でしょうか?

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祖父のこと(2)

(昨日の続きです。)

終戦詔勅は、ラジオで放送されたとのことですが、私はまったく記憶にありません。

1945年8月15日朝、同じ村の少し遠くに住む人から

「日本は負けたんじゃ、戦争は終わる。」

と聞いたそうです。

空襲ですべてが焼けたので、祖母の写真は、一枚も、残っていません。

祖母の位牌も、祖父の位牌を作ったときに、一緒に作り直しています。

 

それでも、祖父のところへ、患者さんは来ていたそうです。

若いころは、普通の家庭医だったそうですが、その頃来ていた方々は、アトピー性皮膚炎の方と、捻挫などで腫れができた方ばかりでした。

 

アトピー性皮膚炎の方には、硼酸軟膏を渡し、捻挫の方にはキハダ(黄柏)を使った湿布薬を渡していました。

 

1947年、私と妹が疫痢にかかり、私は助かりましたが、妹は他界しました。

まだ、抗生物質が一般化していない時代でした。

 

母の実家も、母の兄が戦死し、その後、母の父(私にとっては母方の祖父)が脳出血で亡くなり、母屋には、母の義姉の一家が住んでいました。

母は、祖父と自分の義姉の間に立って、いろいろ気苦労があった、と聞いています。

祖父も父も、周りの人に気を使うような人ではありませんでしたら。

 

1950年、一家は、母のすぐ上の、姉の別宅を借りて、さぬき市から、東かがわ市に引っ越ししました。

 

祖父は、相変わらず、朝は冷水摩擦をし、午前中は診察をし、午後は近所に散歩をし、そのあとは、横になっていることが多かったです。

最晩年の祖父は、耳が聞こえなくなり(母の声だけが聞こえたようです。)ましたが、亡くなる日も、午前中は、普通に診察をしていたそうです。

今も思いますが、母がいたからこそ、祖父は晩年の活動ができたのでしょう。

 

社会的に、恵まれた後半生でしたが、ずいぶんと、わがままな人で、父と母は、影で、祖父を支えるのに、苦労が多かった、と思います。

しかしながら、私は、祖父にかわいがられたことを、今も思い出すことができます。

 

ある夕方、祖父は母を呼び「〇〇先生(近くに住む開業医)を呼んでくれ。死ぬときは医師の診断書がいるから。」

父と母は「死ぬことなんて、わかるはずがありません。なんてことを言われるのですか。」と、止めたそうです。

「人が死んで、医師の診断書がないと、お前たちに迷惑がかかるから。」と言って聞かず、〇〇先生が来られてから、約2時間後に亡くなったそうです。

 

私が、大人になってから、身内の医師にこの話をすると、「おそらく私の父の場合と同じように心筋梗塞の発作を起こしたのだろう。」とのことでした。

1953年没、祖父86歳。

 

日本は、その後「もはや戦後ではない。」と言われ、もう少し時間を経た後、高度成長期に入ってゆきました。

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ムラサキツユクサ

祖父のこと(1)

祖父は、慶応3年(1867年、明治維新の前年)香川県高松市生まれ。

豊かな家では、なかったので、遠縁の医師の家の書生になった。

その家の娘さんと将来、結婚することを前提として、学費を出してもらって、医師となった。

しかしながら、その娘さんは、肺結核になって、亡くなったそうである。

そして、その家を出て、東京へ行ったとのことである。

 

東京で、祖父が何をして、(医師の資格があったから、働いて食べてゆくことはできただろう。)誰と交流して、どんな生活をしていたのか、何も知らない。

 

ただ、祖母とは、東京で知り合い、結婚している。

父が明治31年(1898年)高松市生まれだから、祖父も祖母も1890年代(明治20年代後半)には高松市に戻り、開業していたという事である。

 

祖母が、もともと、兵庫県たつの市出身だとか、昼から、お琴を弾いたり、キセルで、たばこを吸っていたとか、俳句の勉強をしたりしていたとか、という事は、父の妹(叔母)から聞いた。

金銭的には、豊かな生活をしていたのだろう。

 

東京に住んでいたころ、肺門リンパ腺炎になり、なんとか、回復したもの、その後、再発を恐れて、毎朝、冷水摩擦を始めた、とのことであった。

記憶の祖父は、亡くなる日の朝まで、洗面器に水を入れ、タオルをその水で濡らし、体をふいていた。(体をこすっていたのかもしれない。)

 

祖父も趣味に漢詩を作り、その和綴じのノートが、太平洋戦争後も、我が家にあった。

祖父が亡くなったとき、高松市立図書館に引き取られた、と聞いている。

 

その当時、電話が導入され、最初、高松市で導入された家という事で、当時の電話局から、通知をもらった記憶がある。

3歳まで住んだ家であったが、ラジオもあった。(当時、すべての家にラジオがあったわけではない。)

 

祖母は、1940年より少し前に亡くなって、父は、2回目の離婚をした後だったから、女手のない家。

祖父は、父の3回目の結婚相手を必死で探した、とのことであった。

その頃の我が家の生活は、すべて祖父中心に回っていた。

父と母は、1940年に結婚している。

 

母は後年「本当にいそがしい毎日だった。祖父の世話、たくさんの患者さん、食料事情が悪くなって、物は手に入らない時代だったし、サツマイモの蔓まで食べた。」とのこと。

 

1945年、高松市は空襲にあう。

そして、母の実家の離れ(香川県さぬき市)を借りて、一家は住むことになる。

我が家はもちろん、丸焼け。(明日に続く。)

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シクラメン

高齢者が活動を辞めたら陥る危険

recoca1940.hatenablog.com

recocaさんのブログから、引用させていただきました。

「年をとっても、仕事を辞めたり、引退してはいけない。…生理的活動刺激するのでなく、様々な心理的できごとによって、体力の衰えをカバーするのが望ましい。」

 

仕事を辞めてから、すぐに夫の介護が始まった。

 

一人暮らしになり、自分の好きな時間に寝て好きな時間に食事をして、24時間自由時間になったとき、それまで、したくてできなかった国内旅行に出かけ始めた。

最初は、青春18切符を使って、それでも見たことなかった富士山を見に行った。

宿の手配、どの列車に乗ったらよいか、どこを見るか、初めてのことで、ドキドキハラハラ。75歳の時である。

富士山は、本当にきれいであった。

 

その後、上高地十和田湖、沖縄などへ出かけた。

 

しかし、コロナが、始まって、国内旅行ができなくなった。

現在、歩く力が大きく落ちている。

近くのウォーキングはしているにもかかわらず。

 

コロナが終わっても、すでに遠出できる力は失われていると思う。

せめて、日帰り旅行ができるところへ行こうと思っている。

小さな冒険心をいつも、持っていることが、高齢者の健康のもとであるから。

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ホトトギス

昨日の食事(糖質制限食の一例)

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昨日の昼食です。

鶏ハム、明太子入りオムレツ、ハタハタの南蛮漬け(前日の残り)、ゴーヤの佃煮、ナスの浅漬け、写真にはとっていませんが、いつものように牛乳を225ml、無糖ヨーグルトを100gを食べています。

 

私は、糖質制限をしていますので、ご飯も麺類もパンも食べません。

 

少し前、自分の食事エネルギーを計算してみて、脂質が足りなかったので、朝ご飯に、エゴマ油をスープ用スプーンに5杯、無糖ヨーグルトを100g食べました。

spring211.hatenablog.com

 

おやつに牛乳225mlをいつものように飲みました。

 

夕食は

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昼の鶏ハムの残り、塩サケ、冷奴、チーズ、ゴーヤの佃煮、おくらを食べています。

追加したのは、牛乳225ml。

 

前回、このブログに載せた食事内容とあまり変わり映えはしませんが、いつ食べても、おいしく、飽きずに食べられます。

ほんとうに、おいしい。ご馳走様。

 

なお、朝、ヨーグルトを食べ、エゴマ油を飲み始めましたが、体重は57kgと、変化しておりません。